11/03/2026
【おんせん県おおいたへの道のり ~歴史資料にみる温泉行政~】
その1:大分県の温泉調査の始まり
大地から湧き出るあたたかな湯につかると・・・アラ不思議、ケガが治り活力が戻る!!
日本人にとって温泉は、古代からその効用が伝えられ、人々は保養や養生にと親しんできたものでした。
しかし、明治以降の西洋文化の流入は社会の変化をもたらし、温泉に対する行政のありかたや私たちとの関係も変化させていきます。明治以降の温泉と私たちのかかわりを、所蔵する資料から見ていきましょう。
明治政府は近代国家として欧米と肩を並べようと様々な政策を実行します。そのひとつとして、統一された国であることの証明となる国土の把握を計画し、地誌調査を各府県に命じました。
明治6(1873)年3月24日、太政官正院*から大分県に、地誌を編集するための原稿が訂正例則と共に示されました(出典①)。これは政府が地図や書籍によって作成したものなので、実地調査に基づいた訂正・変更を加えて提出するよう求めるものでした。項目として地理・人口・交通・教育・神社仏閣・物産などと共に温泉も挙がっていますが、別府・鉄輪・赤湯の3か所が記述されているだけでした。
その後、各府県から提出された訂正文書を基にした『日本地誌提要』が明治7~12(1874~1879)年に出版されました。大分県は湯平ほか12の温泉の所在地・簡単な泉質・効用(画像①)が載っています。
また、西洋文化を教えるために招かれた欧米人教師の中には、日本の温泉に国民の健康と保養への大きな効果を見出し、科学的調査で証明される効用の必要性を政府へ提言した方がいました。こうして医学・衛生面からの調査も始まりました。
明治初期の衛生行政の経緯などと共に温泉についても記録されている資料(出典②)によると、温泉調査は明治7(1874)年に始まりましたが、正確ではなかったため、あらためて明治13(1880)年調査を開始しました。しかし、初期の温泉調査は所在地の把握が中心で、効用を証明する成分分析はできておらず、(成分分析)調査とその結果の公開が急務であると、更なる調査への意欲を述べています。(画像②)
そして明治14(1881)年1月にはドイツで開催される「鉱泉学博覧会」へ出品するための調書、温泉と冷泉合計59種を内務省衛生局に送りました。これら全国から集めた調書を基にして、初めて日本国内の鉱泉を統一規格で記述した『日本鑛泉誌』が明治19(1986)年に出版されました。
*太政官正院(だじょうかんせいいん):明治初年の政府の最高官庁。
出典
①『官省達留 明治六年』
②『大分県第1次衛生年報 自明治6年至明治14年6月』
参考資料
☆『日本における近代地理学の成立』石田龍次郎著 大明堂1984
☆『明治政府の地誌編纂事業と国民国家形成』島津 俊之(和歌山大学教育学部)
「地理学評論」75-2 88-113 2002
https://web.archive.org/web/20190505165243id_/https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj2002/75/2/75_2_88/_pdf
☆『日本地誌提要 巻之65-75』国立国会図書館デジタルコレクションより 巻68
https://dl.ndl.go.jp/pid/1086570/1/51
☆『日本鉱泉誌 : 3巻 下』国立国会図書館デジタルコレクションより
https://dl.ndl.go.jp/pid/992264/1/58