大分県公文書館

大分県公文書館 大分県公文書館が運営する公式Facebookページです。
旧ページhttps://www.facebook.com/oitakenkoubunshokan/から、令和4年7月に引越しました。

【休館日】
日曜日、月曜日、国民の祝日(日曜日又は月曜日と重なった場合は火曜日)
年末年始(12月28日~1月4日)
特別整理期間

【おんせん県おおいたへの道のり ~歴史資料にみる温泉行政~】その1:大分県の温泉調査の始まり大地から湧き出るあたたかな湯につかると・・・アラ不思議、ケガが治り活力が戻る!!日本人にとって温泉は、古代からその効用が伝えられ、人々は保養や養生に...
11/03/2026

【おんせん県おおいたへの道のり ~歴史資料にみる温泉行政~】
その1:大分県の温泉調査の始まり

大地から湧き出るあたたかな湯につかると・・・アラ不思議、ケガが治り活力が戻る!!
日本人にとって温泉は、古代からその効用が伝えられ、人々は保養や養生にと親しんできたものでした。
しかし、明治以降の西洋文化の流入は社会の変化をもたらし、温泉に対する行政のありかたや私たちとの関係も変化させていきます。明治以降の温泉と私たちのかかわりを、所蔵する資料から見ていきましょう。

明治政府は近代国家として欧米と肩を並べようと様々な政策を実行します。そのひとつとして、統一された国であることの証明となる国土の把握を計画し、地誌調査を各府県に命じました。
明治6(1873)年3月24日、太政官正院*から大分県に、地誌を編集するための原稿が訂正例則と共に示されました(出典①)。これは政府が地図や書籍によって作成したものなので、実地調査に基づいた訂正・変更を加えて提出するよう求めるものでした。項目として地理・人口・交通・教育・神社仏閣・物産などと共に温泉も挙がっていますが、別府・鉄輪・赤湯の3か所が記述されているだけでした。
その後、各府県から提出された訂正文書を基にした『日本地誌提要』が明治7~12(1874~1879)年に出版されました。大分県は湯平ほか12の温泉の所在地・簡単な泉質・効用(画像①)が載っています。

また、西洋文化を教えるために招かれた欧米人教師の中には、日本の温泉に国民の健康と保養への大きな効果を見出し、科学的調査で証明される効用の必要性を政府へ提言した方がいました。こうして医学・衛生面からの調査も始まりました。
明治初期の衛生行政の経緯などと共に温泉についても記録されている資料(出典②)によると、温泉調査は明治7(1874)年に始まりましたが、正確ではなかったため、あらためて明治13(1880)年調査を開始しました。しかし、初期の温泉調査は所在地の把握が中心で、効用を証明する成分分析はできておらず、(成分分析)調査とその結果の公開が急務であると、更なる調査への意欲を述べています。(画像②)
そして明治14(1881)年1月にはドイツで開催される「鉱泉学博覧会」へ出品するための調書、温泉と冷泉合計59種を内務省衛生局に送りました。これら全国から集めた調書を基にして、初めて日本国内の鉱泉を統一規格で記述した『日本鑛泉誌』が明治19(1986)年に出版されました。
*太政官正院(だじょうかんせいいん):明治初年の政府の最高官庁。

出典
①『官省達留 明治六年』
②『大分県第1次衛生年報 自明治6年至明治14年6月』

参考資料
☆『日本における近代地理学の成立』石田龍次郎著 大明堂1984
☆『明治政府の地誌編纂事業と国民国家形成』島津 俊之(和歌山大学教育学部)
「地理学評論」75-2 88-113 2002
https://web.archive.org/web/20190505165243id_/https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj2002/75/2/75_2_88/_pdf
☆『日本地誌提要 巻之65-75』国立国会図書館デジタルコレクションより 巻68  
https://dl.ndl.go.jp/pid/1086570/1/51
☆『日本鉱泉誌 : 3巻 下』国立国会図書館デジタルコレクションより
https://dl.ndl.go.jp/pid/992264/1/58

【令和7年度 企画展開催のお知らせ】令和7年度企画展を2月21日(土)から「おんせん県おおいたへの道のり ~歴史資料にみる温泉行政~」と題して開催いたします。大分県にとって温泉は泉源総数・湧出量共に日本一を誇り、健康・観光・エネルギーなどに...
19/02/2026

【令和7年度 企画展開催のお知らせ】

令和7年度企画展を2月21日(土)から「おんせん県おおいたへの道のり ~歴史資料にみる温泉行政~」と題して開催いたします。
大分県にとって温泉は泉源総数・湧出量共に日本一を誇り、健康・観光・エネルギーなどにおいて重要な産業となっています。しかし、近年、大分県の温泉も湧出量や温度の低下などが心配されています。これは明治時代から課題となっており、わたしたちがどのようにその課題と向き合い、利用と保護を図っていきたのか行政文書を中心にたどっていきます。
自然と人間の営みのあり方を考える機会になれば幸いです。
皆さまのご来館をお待ちしております。

開催期間等は下記のとおりです。
期間:令和8年2月21日(土)~4月19日(日)
休館日:2月24日(火)、3月2日(月)、3月16日(月)、3月30日(月)
4月6日(月)、4月13日(月)
会場:豊の国情報ライブラリー1階 大分県立先哲史料館展示室
入場料:無料

16/01/2026

【特別整理期間休館のお知らせ】
大分県公文書館は、以下の期間を特別整理期間として休館いたします。

令和8(2026)年1月26日(月曜日)~2月4日(水曜日)

休館期間中は、電話・メール・ファックス等による問い合わせ及び相談等も停止いたします。
皆さまにはご不便をおかけいたしますがご了承ください。
なお、大分県立図書館と大分県立先哲史料館の特別整理期間(休館)は、令和8年1月26日(月曜日)から2月9日(月曜日)です。当館の整理期間とは異なりますのでご注意ください。

【年末年始の休館のお知らせ】今年も残すところあとわずかとなりました。さまざまに当館をご利用いただきありがとうございます。年末年始の休館日をお知らせいたします。☆年末年始の休館令和7年12月28日(日曜日)~令和8年1月5日(月曜日)来年もよ...
23/12/2025

【年末年始の休館のお知らせ】

今年も残すところあとわずかとなりました。
さまざまに当館をご利用いただきありがとうございます。

年末年始の休館日をお知らせいたします。
☆年末年始の休館
令和7年12月28日(日曜日)~令和8年1月5日(月曜日)

来年もよろしくお願い申し上げます。

【令和7年度記録史料保存セミナーの報告】11月20日(木)「令和7年度記録史料保存セミナー」を大分県立図書館の視聴覚ホールで開催いたしました。県内市町村職員やアーカイブズ学を学ぶ学生の方々が参加されました。講演1では、香川県立文書館専門職員...
26/11/2025

【令和7年度記録史料保存セミナーの報告】

11月20日(木)「令和7年度記録史料保存セミナー」を大分県立図書館の視聴覚ホールで開催いたしました。
県内市町村職員やアーカイブズ学を学ぶ学生の方々が参加されました。

講演1では、
香川県立文書館専門職員の嶋田典人氏に「公文書館のない基礎自治体のアーカイブズ管理と活用」というテーマで、香川県の事例を交えて説明いただきました。
行政機関で文書が作成され、一定期間使用・保存された後、「歴史資料として重要」とされたものは廃棄でなく公文書館で永久保存、という「公文書のライフサイクル」の捉え方や、これらが将来、県民や行政職員に閲覧、利用されることの大切さのお話、そのための仕組みづくりのポイントなど、多岐にわたる示唆に富んだものでした。

講演2は、
大分県立芸術文化短期大学名誉教授の吉良國光氏による「歴史史料を後世に残すために」とのテーマです。
「活発に活動して新しい社会を創造していく事は、それまでの物を失う、壊していくことにも繋がる」~この繰り返しの中での「保存」の困難性や、「調査・研究」と「保存」の密接な関係について、景観・地名・美術資料・古文書の具体例を挙げてお話しいただきました。さらに、古文書の調査、保存の相談に当たっては、「史料のマイナスな評価はしないこと」など、長く大切に保管してきた所有者のお気持ちに十分配慮する必要性を説かれ、会場も特に聞き入った様子でした。

セミナー最後の、別府大学アーカイブズセンター長の針谷武志氏をコーディネーターとする意見交換会では会場から多くの質問が寄せられました。
質問やアンケートには、「文書保存年限について考えたい」「修理・保存の大切さを知った」などの声をいただきました。

【令和7年度 記録史料保存セミナー開催のご案内】猛暑から一転、急に寒くなったこの頃、当館入り口の桜の葉はまだ青々としています。さて、毎年ご好評をいただいている「記録史料保存セミナー」開催のお知らせです。このセミナーは、当館が事務局を務める大...
30/10/2025

【令和7年度 記録史料保存セミナー開催のご案内】

猛暑から一転、急に寒くなったこの頃、当館入り口の桜の葉はまだ青々としています。
さて、毎年ご好評をいただいている「記録史料保存セミナー」開催のお知らせです。
このセミナーは、当館が事務局を務める大分県歴史資料保存活用連絡協議会が、公文書をはじめとする記録・歴史資料への理解を深めていただくことを目的として、他県の実例や先進的な事例を題材に講師を招いて開催しています。

令和7年度は、
11月20日(木)13:00から、大分県立図書館2階の視聴覚ホール
で開催いたします。
(閉会予定時刻:16:10)

今回は、
香川県立文書館専門職員の嶋田典人氏による「公文書館のない基礎自治体のアーカイブズ管理と活用」と、
大分県立芸術文化短期大学名誉教授の吉良國光氏による「歴史史料を後世に残すために」をお聞きいただきます。
その後、別府大学アーカイブズセンター長の針谷武志氏をコーディネーターにお迎えしての意見交換会を予定しています。

配布資料等の関係がありますので、参加を希望される方は事前に申込みをいただけると幸いです。もちろん当日参加も可能です。

お問い合わせ・お申し込みは大分県公文書館にお願いいたします。
電話:097-546-8840(火曜日~土曜日 9:00~17:00)
メール:[email protected] 

たくさんの方のご来場をお待ちしております。

【「戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~」その5 戦争の記憶をたどる】毎日、様々な人が訪れ、平和な時間が流れる豊の国情報ライブラリーですが、近隣には戦争を記憶する遺跡が残されています。その戦争の痕跡をたどってみ...
19/09/2025

【「戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~」
その5 戦争の記憶をたどる】

毎日、様々な人が訪れ、平和な時間が流れる豊の国情報ライブラリーですが、近隣には戦争を記憶する遺跡が残されています。その戦争の痕跡をたどってみましょう。

地図内①
明治41(1908)年に陸軍歩兵第72連隊が駐屯を開始するにあたっては、陸軍墓地も設置されました。
戦死者が出ることは当然のこととして、お墓の場所も用意されたのです。
そして、日露戦争、シベリア出兵におけるユフタ戦、済南事変、満州事変と、戦没者碑が建立されていきました。
太平洋戦争が終わった後の昭和28(1953)年3月、大分県は敷地内に納骨塔を建設し、終戦当時大分連隊区司令部が保管していた分骨と戦後外地から持ち帰った無名戦士の遺骨を納骨しました。(画像①)
昭和30(1955)年3月には、この旧陸軍墓地を大蔵省から譲り受け、名称を「桜ヶ丘聖地」としました。
現在は、桜の美しい公園として親しまれ、また第一次世界大戦の捕虜として大分で過ごし、故国に帰ることなく大分で没したドイツ人兵士の墓もあり、遺族・関係者が大分を訪れるなど日独友好の印となっています。

地図内②③
陸軍駐屯地には昭和18(1943)年から終戦までは大分陸軍少年飛行兵学校が存在し、戦後は占領軍が管理していました。
やがて、全国の旧軍用地は公共施設・住宅・農地等に転用されていきます。兵舎や演習場があった場所は、昭和23(1948)年4月に大分師範学校(現大分大学教育学部)が移転してきたことを始まりとして、教育施設や住宅地になっていきました。
公園(やまばと児童公園)となった場所には「大分聯隊跡之碑」(大分聯隊跡記念碑建設委員会 昭和45(1970)年11月3日建立)(画像②)、「はるか之碑」(元大分陸軍少年飛行兵学校跡地顕彰会1995年春建立)(画像③)が建ち、のびやかに走り回る子供たちを見守っています。

地図内④
また、駐屯地と丘陵の間にある道路脇には陸軍用地を示す標石がひっそりと残っています。(画像④)
そして、変わらない姿で駐屯地の背後に見えていた丘陵では大正以降ミカン栽培が盛んでしたが、現在は宅地化が進んでいます。

残されたものの声に耳を傾け記録をたどってみると、今の私たちと同じ姿が見えることがあります。
記録を残し伝えていくことは、私たちの未来をつくることでもあると思います。

資料
・「縣政の窓」昭和28年6月
・「県有財産 国有財産 借受一件」(登録番号1995120021)
参考資料
・「大分県桜ヶ丘聖地(旧陸軍墓地)について」 
大分県HPより
https://www.pref.oita.jp/soshiki/12300/sakuragaokaseiti.html
・「おおいたの戦争遺跡」大分県文化財保存協議会 2005年

【「戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~」その4     戦没兵士の合同葬】               日中戦争から太平洋戦争にかけて、おびただしい兵士・民間人が亡くなっており、その数は約310万人と言われて...
15/08/2025

【「戦後80年 語り続ける写真たち
 ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~」その4 
戦没兵士の合同葬】               

日中戦争から太平洋戦争にかけて、おびただしい兵士・民間人が亡くなっており、その数は約310万人と言われています。
この中には、大分駅から戦地へ行き、戦死という無言の帰還をした兵士も含まれています。
昭和12(1937)年10月31日、陸軍歩兵第47連隊駐屯地で、支那事変戦没者の合同葬が執り行われました。(画像①)
兵士たちが向かって整列するのは、たくさんの幟や葬儀用花輪が左右に立てられた祭壇です。

積み上げられた遺骨に向かい大分県知事粟屋仙吉が弔辞を読んでいるものです。(画像②)
「弔敬」の額が掲げられた祭壇は、注連縄やさかきで装飾されています。

兵士たちが向きあう祭壇の更に向こうには、入営時と変わらぬ丘陵が見えています。
大切な人を思う心も、今も昔も変わりません。
大切な人を失うことになる戦争がなぜ起こり、続いたのか。
問い続け、考え続けることの大切さも変わっていないと思う終戦から80年の今年です。

資料
『森肇氏旧蔵アルバム 1』

参考資料
・「支那事變と無敵皇軍」大分新聞社 発行 1938年
・「大分聯隊写真集」 国書刊行会 発行 1978年
  (大分県立図書館所蔵)
・大分県報 S12(8)
・大分新聞 S12(1937)年10月28日朝刊、10月31日朝・夕刊、11月1日夕刊
  (大分県立図書館の新聞画像データベースより)

【戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~】その3 大分駅での出征兵士壮行風景大分駅は平成27(2015)年に駅ビルとして新しくなってから、今年で10年を迎えました。駅の始まりは明治44(1911)年、豊州本線の終...
02/08/2025

【戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~】
その3 大分駅での出征兵士壮行風景

大分駅は平成27(2015)年に駅ビルとして新しくなってから、今年で10年を迎えました。
駅の始まりは明治44(1911)年、豊州本線の終着駅としての開業です。
太平洋戦争末期、米軍からの空襲被害も受けた初代駅舎は、昭和33(1958)年に2代目駅舎に建て替えられ、現在の3代目駅ビルへと生まれ変わりました。

画像は、初代の大分駅舎前での、支那事変の戦地へ出発する兵士を送る様子を写したと思われるものです。
駅舎の壁には「支那事変」の文字と日の丸が描かれたポスターが見え、正面ファサードの時計は8時50分頃を指しています。
この時計は当初は設置されていなかったのですが、遅くとも昭和13(1938)年には掛けられていたようです。
敬礼をする兵士たちは30歳代と思われる人が多く、向かって左側に見える女性や子供たちはその家族でしょうか。
凛々しく敬礼をする兵士たちですが、見送る人々にはどこか沈痛な面持ちが感じられます。

現在の大分駅は、たくさんの人が訪れ、旅立っていく心躍る場所です。
しかし、この写真に写る人々にとってはどのような場所だったのでしょうか。すべての兵士が生きて戻れたのではなかったのでした。
駅に立った時、私たちの日常を支える平和について考えてみてください。

資料
・「森肇氏旧蔵アルバム」より「大分駅での出征兵士壮行会風景」

【戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~】その2 駐屯地の正門今回は、駐屯地の「正門」に注目してみましょう。画像①は「歩兵第四十七聯隊」の門札が掛かる駐屯地正門を出発する学生を写したものです。学生たちは詰襟に学生...
05/07/2025

【戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~】
その2 駐屯地の正門

今回は、駐屯地の「正門」に注目してみましょう。
画像①は「歩兵第四十七聯隊」の門札が掛かる駐屯地正門を出発する学生を写したものです。
学生たちは詰襟に学生帽、足にはゲートルを巻いています。
その前を進む男性は背広姿です。男性の服装として国民服令が制定されるのは昭和15(1940)年、この写真はそれより以前に写された教育教練(軍事教練)でのことと考えられます。

正門からの道はまっすぐ大分市の繫華街である竹町通りへと続き、この道を通って兵士たちは出征して行きました。
現在、この門の位置には学校施設の正門が建っており、生徒たちが元気に通い、繁華街へと続く道は生活道路として人々に利用されています。

ところで画像②は、第72連隊が駐屯していた時の正門の写真です。
大正9(1920)年発行の「大分縣写真帖」のに収められたもので、画像①と比べてみると、門衛所の後ろには柳が植わっており、門を入った右手の建物はまだありません。
この画像は、「おおいたデジタル資料室」でもご覧いただけます。
https://wwwa6.musetheque.jp/oita-digital/

「おおいたデジタル資料室」は、インターネットに接続した端末から「いつでも・どこでも・どなたでも」、豊の国情報ライブラリー(大分県立図書館・大分県立先哲史料館・大分県公文書館の三館の総称)が所蔵する資料を検索することが可能なシステムです。
気になる事象のキーワードで検索してみてください。

資料
・「大分県関係(古写真)」より「〔駐屯地正門を出発する学生〕」 昭和戦前期
・「大分縣写真帖 (大正9年)」より「歩兵第七十二聯隊」

【戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~】その1 公文書館と陸軍駐屯地私たちの社会、暮らし、そして心に大きな傷を与えた戦争が終わって80年。その戦争を体験された方々が少なくなっていく中で、どのように「戦争」を記憶...
18/06/2025

【戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~】
その1 公文書館と陸軍駐屯地

私たちの社会、暮らし、そして心に大きな傷を与えた戦争が終わって80年。
その戦争を体験された方々が少なくなっていく中で、どのように「戦争」を記憶していくかが重要な課題となっています。
改めて当時の資料を見直してみると、様々な資料が戦争への足跡を伝えていることに気が付きます。

公文書館が入る「豊の国情報ライブラリー」一帯は、戦前、陸軍の駐屯地でした。
画像①は昭和9(1934)年に発行された「大分市新地図」という、当時の大分市域を一望できる地図です。
赤丸で囲んだ部分が大分連隊で、その拡大の画像②に赤矢印で示した“衛戍(えいじゅ)病院”*に豊の国情報ライブラリーは建っています。
  *衛戍病院:陸軍付属の病院

明治41(1908)年7月、陸軍歩兵第72連隊が駐屯を開始しました。
大正14(1925)年4月、宇垣軍縮により廃隊となりますが、同年5月歩兵第47連隊が小倉から移駐、新たな大分連隊は大分県のほとんどの地域からの兵士を管轄し(日田郡は久留米連隊区)、兵士はこの地に召集され、ここから出征して行きました。

画像③は、陸軍歩兵第47連隊への入営(軍隊に始めて入ること)時の風景です。
「祝」の字や入営する人物の名前と部隊名などが書かれ、日の丸・日章旗も描かれた多くの幟が画面いっぱいにはためいています。
入営は1月に行われるのが一般的で、人々はトンビ(和服用コート)やコートを羽織り、女性はショールを肩にかけていますが、寒さより熱気が伝わってくるような情景です。
当時、軍隊に入ることは義務であり名誉とされていたのでした。
この写真は、練兵場の東側(地図の右)から撮られたと思われ、幟の彼方に見える西側の丘陵の姿は現在も変わりません。

資料
・「大分市新地図」 昭和9(1934)年 大分情報局発行
・「大分県関係(古写真)」より「〔第47連隊入営風景〕」 昭和戦前期

参考文献
・大分県史 近代篇Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、現代篇Ⅰ

【閲覧室展示 ご案内「戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~」】公文書館が入る「豊の国情報ライブラリー」一帯は「駄原(だのはる)」と呼ばれ、明治41(1908)年に陸軍歩兵第72連隊が駐屯を始めてから、戦後は占領...
27/05/2025

【閲覧室展示 ご案内
「戦後80年 語り続ける写真たち ~公文書館一帯は陸軍駐屯地だった~」】

公文書館が入る「豊の国情報ライブラリー」一帯は「駄原(だのはる)」と呼ばれ、明治41(1908)年に陸軍歩兵第72連隊が駐屯を始めてから、戦後は占領軍の管理が終わる昭和23(1948)年に至るまでの40年間を軍隊と共にありました。
今年令和7(2025)年は、太平洋戦争が終わった昭和20(1945)年から80年目にあたります。
陸軍駐屯地であった頃の写真や地図などを通して当時を想像し、現在が過去の上にあることを感じ、平和と未来を考える一助になればと願います。
皆様のご来場をお待ちしております。

展示会場:大分県公文書館 1F閲覧室
入場料:無料
 *閲覧室展示は、照明・空調の点から原本は使用しないため複製を用いています。

住所

大分県大分市王子西町14番1号
Oita-shi, Oita
870-0008

営業時間

火曜日 09:00 - 17:00
水曜日 09:00 - 17:00
木曜日 09:00 - 17:00
金曜日 09:00 - 17:00
土曜日 09:00 - 17:00

アラート

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