20/05/2025
最近、保守論者と言われる政治家の乱暴な発言が相次いでいる。
参議院議員、西田氏の発言はあまりにも残念であり、社会人の基本である三思後行が欠落している。政治家として失格だ。
あくまでも私見ですが、保守とは何ぞやを今一度考えてみたい。
保守の基本理念は、
「国民の豊かさの向こうに個々の幸福が生まれ、そのさきには平和が存在する」ことである。そこに、無秩序な争いは生じない。ただし、国民をいかに守るかという道理が不可欠である。この道理には、日本の風土や慣習で培われた智慧や倫理観、行動規範が大きく影響する。
「国民を守る」の心髄は、
国民はいかなる時に弱者になり得るのか、そして弱者はいかなる時にいかにして守られるべきなのか、というプロセスから導かれなければならない。
この道理が国民の良識となり、地域において実感できてはじめて確固たる秩序が生まれるのではないだろうか。
このプロセスを平和と言うのだと思う。
この理念をどのように政治で実現するかが政治家の役割である。
政治家の考えは議論百出である。
国民の「豊かさ」や「幸福」、の認識も千差万別、ましてや歴史認識は言わずもがなである。
しかし、長い年月で培われた道理というものは、簡単に失われるものではない。
潜在的な良識として日本人がもっているものである。
この道理は、「世界平和」に通ずる理念でもある。
普遍的道理へのアプローチの1つに歴史認識がある。
歴史認識は道理とイコールではなく、観念であり、個々の認識である。強制的に一方的に押し付けられるものではない。
なぜなら、その認識は国によって、人によってさまざまであり、純粋な思い、戦略的な考えなど、多種多様な企みが錯綜しているゆえ、我々の道理と直結させることはかえって危険だからである。歴史認識を主体的な国民の良識にしようとすると、道理自体が崩壊してしまうのだ。
自虐史観を受け入れろという議論とは全く別の話である。
保守を語る人たちの中には、歴史認識を主体にして保守思想をとらえている人がいるのでややこしい。歴史認識によって国を一色に染めようとしてはいけないのである。 道理である良識は、日本人の心に浸透している。かろうじて今も存在する。
これは、どんな企てによっても侵されるものではない。
この道理を政治によってどのように覚醒させ、存続させるのかが問われているのである。これが保守の立ち位置ではなかろうか。
仁をそこなうものは賊(ぞく)であり、義をそこなうものは残(ざん)である。残賊の人はもはや主君ではなく、ただの男にすぎない。
・・・仁義なき暴君は天下のために追放する”という孟子の湯武放伐論である。
拙い長文を最後まで読んでいただきありがとうございました。