こころとからだ 学びの相談室 図書館

こころとからだ 学びの相談室 図書館 こころとからだ 学びの相談室の図書館です。 主に心理学関係の本があります。 世界遺産 熊野那智山の山裾にある一軒家です。蔵書は約2000冊。閲覧室も見晴らしがよく、広くてゆったりしています。会議室もあり、宿泊も可能【自炊)ですので研修会や合宿にも利用できます。【10名程度)

「自己実現」とは、具体的にはどういうことをいうのでしょう? 辞典を調べてみると、「自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きること」あるいは、「人生の究極の目標を実現すること」と書いていたりします。 では、私たちは、自身に潜在...
03/02/2018

「自己実現」とは、具体的にはどういうことをいうのでしょう?

 辞典を調べてみると、「自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きること」あるいは、「人生の究極の目標を実現すること」と書いていたりします。

 では、私たちは、自身に潜在する可能性と潜在しない可能性を、どうやって見極めることができるのでしょうか? そして、潜在する可能性を、100%完璧に実現することが、自己実現なのでしょうか? 人生の究極の目標とは、自分の可能性を完璧に実現することでしょうか? 世の中で何かを成し遂げることでしょうか? 自己の可能性と自己を取り巻く環境は、いかなる関係にあるでしょうか? いつもそれは折り合うものでしょうか?(例えば、同性と愛を育むという可能性)

 「自己実現(Self-actualization)とは、もともとは心理学の用語で、ユダヤ系のゲシュタルト心理学者で脳病理学者でもあったクルト・ゴルトシュタイン (Kurt Goldstein) が初めて使った言葉。」(ウィキペディア)だそうです。

  彼の教え子の一人カール・ロジャーズが、これを概念化し、アメリカの心理学者アブラハム・マズローは「欲求段階説(欲求の階層構造)」において、「自己実現の欲求」を5階層の最上位に位置づけた、とあります。

 「実現」ということばを考えるとき、私は、文語の「全き」と口語の「完全」の違いを思います。

 日本語の聖書は、かつて(明治時代から第二次大戦後まで)は文語で書かれていたようです。
 例えば口語訳だと、「あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ伝の五章四八節)が、文語訳では「然らば汝らの天の父が全きが如く、汝らも全かれ」となります。

 「人生を全うする」ということばがあるように、本来の自己実現の意味は、文語の「全うすること」のほうと私は思っています。 人間個人はもとより完全でも完璧でもあり得ない、でも人生を全うすることはできると。 なぜなら、不完全なままで、世界内存在であるから。

 完全であろうとするのは、自己実現であるよりむしろ社会適応志向のようにおもいます。

 生きるとは、死ぬとは、世界と自分との関係とは、といったことについての自分の見解を常に研鑽しつつ、その見解に従って人生を全うするのが、自己実現ではないか、と私は思っています。

 自己の中に、可能性が潜在しているのではなく、『世界』の中に潜在している可能性のひとつが「自己」であろう、と。

 宮沢賢治はうたいました。「わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。」
 

05/10/2017

こころとからだ 学びの相談室 図書館にご訪問下さりありがとうございます。複数のページを管理する力量がないので、ここにはしばらく投稿していません。関心のある方は、阪口圭一のページをお読みください。そこで、色々な本の紹介をしています。

「生る」と書いて、「ある」とよみます。 英語では「To be」紀州弁の「ある?」は、「生る?」だと思っています。
10/08/2017

「生る」と書いて、「ある」とよみます。 英語では「To be」
紀州弁の「ある?」は、「生る?」だと思っています。

 紀州出身の小説家、神坂次郎氏が、著書「紀州史散策」の中で、また新宮市出身の中上健次氏が、エッセイ集「鳥のように獣のように」の中で、「紀州弁」について語っています。
 方言辞典では、紀州弁は「敬語が極端に少ない」「生物も無生物もアルで表す」と説明されます。 といってもテレビやインターネットが普及した現代においては、地元の若者が「まいしょうら」といった方言を使うことはまれで、生物は「いる」無生物は「ある」と使い分けているようです。

 昭和29年生まれの私は子どもの頃、学校の職員室へ「先生ある?」と入っていって、地元出身でない先生に、「アルはもの扱いになる」と叱られ、「イルを使うように」訂生されたものです。

 改めて古語辞典で「ある」を調べてみると、「生る」「神や天皇など神聖なものが生まれるという意味」とあります。紀州弁のアルは、決して失礼なコトバではなく、むしろ相手を敬う心の込められた古代のみやびな言葉が、今も残っていると思うようになりました。

 日本最古の竹取物語は、「今は昔、竹取の翁というものアリけり」で始まり、旧約聖書の出エジプト記では、モーゼから名前を問われた神が 「わたしはある。わたしはあるというものだ」と答える場面があります。

 アルを「有る」と書けば、物自体が独自に有るように受け取れますが、「生る」と書けば、「広い関わりの中で、いつも新たに活動している」という感じを受けます。仏教の基本的な教えに「諸法無我」があり、意味は、「すべての物事は、なんらかのつながりをもち、もちつもたれつの状態で現象している。」ということですが、「生る」は、仏教の教えの「共生」「縁生」にも通じています。

 「あるがまま」というコトバはあっても、「いるがまま」という表現はありません。
 アルというコトバを使うことは、間違いでも恥ずかしいことでもなく、熊野の文化であり、「共生」の世界観の現れとして、大切に使い、次世代に伝えていきたいと思っています。

649-5302那智勝浦町市野々3987NPO熊野みんなの家 阪口圭一  0735-30-4560

 紀州出身の小説家、神坂次郎氏が、著書「紀州史散策」の中で、また新宮市出身の中上健次氏が、エッセイ集「鳥のように獣のように」の中で、「紀州弁」について語っています。 方言辞典では、紀州弁は「敬語が極端に少ない」「生物も無生物もアルで表す」と...
10/08/2017

 紀州出身の小説家、神坂次郎氏が、著書「紀州史散策」の中で、また新宮市出身の中上健次氏が、エッセイ集「鳥のように獣のように」の中で、「紀州弁」について語っています。
 方言辞典では、紀州弁は「敬語が極端に少ない」「生物も無生物もアルで表す」と説明されます。 といってもテレビやインターネットが普及した現代においては、地元の若者が「まいしょうら」といった方言を使うことはまれで、生物は「いる」無生物は「ある」と使い分けているようです。

 昭和29年生まれの私は子どもの頃、学校の職員室へ「先生ある?」と入っていって、地元出身でない先生に、「アルはもの扱いになる」と叱られ、「イルを使うように」訂生されたものです。

 改めて古語辞典で「ある」を調べてみると、「生る」「神や天皇など神聖なものが生まれるという意味」とあります。紀州弁のアルは、決して失礼なコトバではなく、むしろ相手を敬う心の込められた古代のみやびな言葉が、今も残っていると思うようになりました。

 日本最古の竹取物語は、「今は昔、竹取の翁というものアリけり」で始まり、旧約聖書の出エジプト記では、モーゼから名前を問われた神が 「わたしはある。わたしはあるというものだ」と答える場面があります。

 アルを「有る」と書けば、物自体が独自に有るように受け取れますが、「生る」と書けば、「広い関わりの中で、いつも新たに活動している」という感じを受けます。仏教の基本的な教えに「諸法無我」があり、意味は、「すべての物事は、なんらかのつながりをもち、もちつもたれつの状態で現象している。」ということですが、「生る」は、仏教の教えの「共生」「縁生」にも通じています。

 「あるがまま」というコトバはあっても、「いるがまま」という表現はありません。
 アルというコトバを使うことは、間違いでも恥ずかしいことでもなく、熊野の文化であり、「共生」の世界観の現れとして、大切に使い、次世代に伝えていきたいと思っています。

649-5302那智勝浦町市野々3987NPO熊野みんなの家 阪口圭一  0735-30-4560

「アポトーシス」という言葉を初めて知ったのは、どれくらい前のことでしょう。随分前だったと思います。生物学の本で知ったのだと思いますが、この言葉を知ったころは「自死?ふうん、そういう働きがあるのか」という程度で特に注目はしませんでした。ところ...
22/07/2015

「アポトーシス」という言葉を初めて知ったのは、どれくらい前のことでしょう。随分前だったと思います。生物学の本で知ったのだと思いますが、この言葉を知ったころは「自死?ふうん、そういう働きがあるのか」という程度で特に注目はしませんでした。ところが「生と死のさかひ」を捉えなおす中で、アポトーシスが私にとってのキイワードの一つになりつつあります。

アポトーシスとは
 私達のからだは、一個の受精卵が約60兆個の細胞に分裂・分化してできあがります。その過程で、要らなくなった細胞が、自発的に死んでいく仕組みをアポトーシスといいます。そして、そのプログラムは遺伝子の中にもともと備わっています。
 この自発的な死、アポトーシスが働かなくなり、分化することなく分裂をいつまでも続け増殖し続けて調和を乱す細胞が、癌細胞です。

 アポトーシスという言葉は、一般には未ださほど広まってはいない言葉だと思います。一方、「死」という言葉は、保育園児でも知っているのではないでしょうか。
 私自身も、ものごころついてしばらくして知ったと思います。ただ、知って以来、「死」とは「生」の対極にあり、天災や事故の場合は別として、生の遠い果てにあるもの、なるべく遠くへ遠ざけておくべきものという思いを抱いてきました。
 
 ところが生物学を学び、地球生命誌を学ぶ中で、生と死は別のものでもないと思うようになりました。生の果てに死があるのではなく、私達自身が今この時常に「生」と「死」の「さかひ目」で生きていると思うようになりました。
 
 先ほど言いましたように、自発的な死をしなくていつまでも増殖を続ける細胞ががん細胞となります。
 自死していく細胞があってこそ、私達のからだ全体は生きていきます。
 
 それで一般的に使われている厭うべき、避けるべき「死」とは違って、身近な、生と一体の死という意味で私はアポトーシスという言葉に注目しています。
 
 アポトーシスは特別なことではありません。生のあるところ必ずみられるものです。ただ、静かに進行しますので、私達が気づかないだけです。
 
 例えば、皮膚を傷つけたり、打ったり、凍傷になったり、火傷になったりすると、その部分は死んでしまいます。そういう場合の死は、アポトーシスといわず、ネクローシスといいます。
 そういう細胞死の場合、細胞が膨張し、細胞膜が破れ、細胞膜の内部にあったものが漏れ出します。それらを処分する為に白血球などが集まります。いわゆる炎症反応です。
 一方アポトーシスの場合は、細胞は縮小し、細胞の内部が分裂し、小さな袋詰め状態になるそうです。それらは、マクロファージに取り込まれます。だから静かに進行します。
 
 以前有機農法を実践している方から、野菜にも二つの死があると聞いたことがあります。化学肥料や農薬で育てた人参を放置していると、やがては腐敗してドロドロになる、一方有機自然農法で育てた人参を放置すると、やがて萎びていく、と。ドロドロになるというのがネクローシス、乾燥し萎びていくというのがアポトーシスなのかなとも思います。 
 
 私は死にたくないです。でも、避けられないことであるとも思っています。

人間を生命界の中の小さな細胞に例えると、私たち一人一人がアポトーシスしていくことで、社会全体、生命界全体が維持されていくように思うのです。

 細胞の数からいうと、全体の200分の1にあたる数の細胞が、毎日アポトーシスで入れ替わっていると言われています。

 山が千年万年緑なのは、山や樹が緑色をしているからではありません。やがては枯れて散っていく小さな葉っぱが緑だから、全体が緑に見えます。

 私達人間が、生命界全体にとって、がん細胞のような存在にならない生き方が求められていると思っています。(金利によるお金の増殖は、まるで癌細胞のようです。)

 私達の瞑想会を、生の充実だけでなく「生死の充実 歩く瞑想歩く学校」と謳っているのは、そういう思いが込められています。

 また、瞑想には、遺伝子操作をすることなく、ES細胞やiPS細胞を増やす働きがあるのではと思っています。あるいは、ウイルスがその手伝いをしてくれているのではとも思っています。

 死にたくないけど、死は決定づけられている。ではいかに死ぬか。
 その問いがひとり一人に問われているように思っています。

 椎名麟三という人の名は、高校のときの文学史で見ていたかもしれませんが、ここ1~2年前までは読んだことがありませんでした。小田垣雅也氏の著書を通して関心を持ち、読みはじめました。<キリストは、一口で言えば、生き生き生きよという言葉である> ...
22/07/2015

 椎名麟三という人の名は、高校のときの文学史で見ていたかもしれませんが、ここ1~2年前までは読んだことがありませんでした。小田垣雅也氏の著書を通して関心を持ち、読みはじめました。
<キリストは、一口で言えば、生き生き生きよという言葉である> <いろんな苦しみやなやみや不安や恐怖などで、貧乏くさくしか生きて行くことのできない私たちに、もっと生きることができるということを、もっとゆたかにもっと多様にたくさん生きることができるようにされているのだということを身をもって示している> <人間性をうばわれて、貧弱にしか生きて行けない私たちに、人間性をとりかえそうとしてやってきた方である>と述べています。
 といって教会へ行けば「キリスト」にいつでも逢えると云う訳でないと思っています。聖書を読めば出会えると云う訳でもないと思っています。
 私に限って言えば、物質的だけでなく、情報的にもとても豊かな現代社会の中で、その豊かさゆえにかえって「貧乏くさく、貧弱に」いきているなあ、と感じています。

「私の聖書物語」椎名麟三著 中央公論社 昭和32年刊

 1週間前の朝、目覚めると同時に、「桜沢如一」ということばが浮かびました。今から、43年ほど前、京都である人から桜沢如一と玄米正食を教わりました。人生の大きな転機となりました。ここ1週間、今一度桜沢氏の生い立ちについて調べました。その中で出...
06/04/2015

 1週間前の朝、目覚めると同時に、「桜沢如一」ということばが浮かびました。今から、43年ほど前、京都である人から桜沢如一と玄米正食を教わりました。人生の大きな転機となりました。ここ1週間、今一度桜沢氏の生い立ちについて調べました。その中で出会ったのが、「中央アフリカ横断記」と「世界が認めた和食の知恵」です。ゆっくり読みます。見えない糸が、綾をなして繋がっている感じがして、楽しいです。

 菌と聞けば、病原菌をイメージしてしまったり、進化と聞けば、弱肉強食や適者生存ということばが、浮かんできたりします。 しかし、菌根菌などについての最近の研究によれば、同種の木だけでなく、異種の間でも菌根菌を通して、栄養や情報が交換・交流され...
09/02/2015

 菌と聞けば、病原菌をイメージしてしまったり、進化と聞けば、弱肉強食や適者生存ということばが、浮かんできたりします。
 しかし、菌根菌などについての最近の研究によれば、同種の木だけでなく、異種の間でも菌根菌を通して、栄養や情報が交換・交流されているようです。
 また生命体の体内においても、菌が細胞同士のネットワークの媒介となっているようで、体内・体外に菌が蔓延することは、実は「豊かな」ことではないでしょうか。
 ピーターラビットで有名なポターさんが、地衣類の研究をしていたことをこの本で知りました。

31日の土曜瞑想会は、「耳に残るは君の歌声」を鑑賞します。 1927年 ロシアのユダヤ人の寒村。貧しくも父の愛を受け幸せに育った少女フィゲレ。しかし、ユダヤ人への風当たりが強くなり、父は家族を残しアメリカへ出稼ぎに。その後、村は焼き討ちされ...
28/01/2015

31日の土曜瞑想会は、「耳に残るは君の歌声」を鑑賞します。
 1927年 ロシアのユダヤ人の寒村。貧しくも父の愛を受け幸せに育った少女フィゲレ。しかし、ユダヤ人への風当たりが強くなり、父は家族を残しアメリカへ出稼ぎに。その後、村は焼き討ちされる。家族と離ればなれになり、幼いフィゲレは単身イギリスへ。
 名前も言葉も奪われ、イギリス人の養子となって成長する少女。父に会うことを夢見て、パリに移住しコーラスガールとなる。そこで、同じロシア移民の同僚ローラ、貧しいながらも才能でのし上がったイタリア人のオペラ歌手ダンテ、ジプシーの青年チェーザーと知り合う。
 ナチスの侵攻が始まり、パリもまた占領される。ユダヤ人であることを密告された少女に危険が迫る。
 主人公の少女に、クリスティーナ・リッチ、ジプシーの青年・ジョニー・デップ。監督脚本、サリー・ポッター。2000年イギリス・フランス合作。
 原題は、The Man Who Cried。ビゼーの代表オペラ「真珠採り」の中からメイン楽曲「耳に残るは君の歌声」がベースに流れる。
 監督サリー・ポッターのメッセージ。「20世紀には泣きたいことがいっぱいあった。戦争を重ねてきた暗い20世紀を教訓としない限り、人類は同じ過ちを犯すでしょう。」
 ヨガをしたい方、人生哲学を語りあいたい方は別室を用意しています。

 インターネット上でカウンセラーに寄せられる相談内容を読んでいますと、「私がこの世に生まれてきた以上、私には幸せが約束されているはずだ。だから、私の住むこの世間、育つ家庭、通う学校、職場は、平和で秩序立っていて、思いやりに満ちた理想的、完璧...
19/01/2015

 インターネット上でカウンセラーに寄せられる相談内容を読んでいますと、「私がこの世に生まれてきた以上、私には幸せが約束されているはずだ。だから、私の住むこの世間、育つ家庭、通う学校、職場は、平和で秩序立っていて、思いやりに満ちた理想的、完璧なものであるべきだ。」ということを暗黙の前提とし、「でも実際は、世間や家庭はその幸せの邪魔をする。<問題>だらけだ。それで私は幸せでない、どうしたらいいでしょう」といった訴えが多くみられます。

 古来より東西の瞑想者たちは、そういった訴えに対して、どう応えてきたでしょう。
 
 仏教の見解は単純明快です。曰く「一切皆苦(一切が自分の思うようになる訳でない)」。

 「ダイアローグ」の著者 デヴィッド・ボームは、
「<問題>と<パラドックス>との違いを知り、それぞれにふさわしい方法で反応することが重要」である、と述べています。

 「この世は本来パラドックス・二重性に満ちている」「パラドックスには解決策は存在しない。存在しないからパラドックスという。」というのが古来よりの瞑想者たちの見解であるように思います。

 日本人にもよく知られている般若心経には、
「色即是空 空即是色 色不異空 空不異色」と述べられています。
 
 私達のからだに即して二重性・パラドックスを説明すると、右手と左手は同じではありません。左利き用の野球のグローブは右利きの人には不適切です。では、右手と左手は別々の存在かというと、どちらも同じからだです。手と足についてもいえます。靴下を手袋の代わりに使えません。手と足は同じではありません。同じではないならば、別のものかというと同じからだです。「同じではないけれど、別でもない」これ(二重性)がパラドックスの特徴の一つです。

 波動と粒子は同じではありませんが、光は波動であり、粒子です。
生と死は、同じではありません。しかし、生があっての死であり、死があっての生です。例えば、植物の葉の一部分が傷つき、そこから病原菌が侵入した時、その菌の入った周りの細胞が自死します。自死することで、それ以上の侵入を防ぎ、葉っぱ全体は生きます。
子育ての経験ある人なら、「我が子はかわいいが、同時に子育ては煩わしい」というパラドックスを味わうのではないでしょうか。

 「パラドックスには解決策がないからパラドックスという」と先ほど述べましたが、それを解決すべき<問題>と捉えると、確かにそれが問題となり、より複雑化します。

 アルコール依存を自力でコントロールした成功体験が、新たな依存につながったりします。自分の側が正義と信じ、相手の不正義を糺そうとする人は、自分も相手も間違っているのではと考えることはまれです。嗚呼。

 私達は「全体」ということばを使って「全体」を表そうとします。しかし、<全体ということばを使う>ことが出来ても、私達は<「全体」を知る>ことを出来るのでしょうか。ことばは「事の端」で、全体から部分を切り取ったものです。部分で全体を表そうとすることもまたパラドックスです。
 
 その辺の事情を、ことば(という偶像)で表現しようとすると、とても非論理的な表現になります。
 先程の、般若心経の色即是空がそうです。
 
 さらに般若心経の中には、「不生不滅 不垢不浄(汚れているということはなく、汚れから離れるということもない)不増不減」という表現や、「無無明亦無無明尽、乃至無老死亦無老死尽」という表現があります。
 無明はないと言い、そして無明が尽きることもないとそのすぐ後に言います。
 
 親鸞聖人は、「善人名をもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とおっしゃられました。

 イエス・キリストは、ゲッセマネの丘で
「アッバ、父よ、あなたはどのようなことでもできる方です。この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしが願うことではなく、あなたが欲したもうことを成し遂げてください(マルコ福音書)」。と祈りました。奇跡が起こらず、十字架の上で亡くなることが「奇跡」となりました。

 愛しい恋人も、「糞袋」です。信念や正義よりもむしろ糞袋の方がああ愛し。

なむあみだぶつ。

10月20日 月曜 本日午後の那智の御滝いつか、満月の夜に来てみたいです。月の虹が出ているかも。
20/10/2014

10月20日 月曜 
本日午後の那智の御滝
いつか、満月の夜に来てみたいです。
月の虹が出ているかも。

昨日10月18日 講座の途中のティータイム ベトナム土産のえびせんべいを油で揚げて食べました。 講座の最初の願いどおり、ゆったり、そして充実したときを過ごすことが出来ました。
19/10/2014

昨日10月18日 講座の途中のティータイム
 ベトナム土産のえびせんべいを油で揚げて食べました。
 講座の最初の願いどおり、ゆったり、そして充実したときを過ごすことが出来ました。

住所

那智勝浦町市野々3987
Higashimuro-gun, Wakayama
649-5302

電話番号

+81735304560

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