近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 ‐日本の近代と慰霊の地を巡る‐(戦跡紀行ネット)

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‐日本の近代と慰霊の地を巡る‐
~近代史跡・戦争遺跡・慰霊巡拝~

「笹井戦災の跡」笹井白鬚神社と狭山に残る「奉安殿」流用の神社散策埼玉県狭山市。入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あわせて、狭山市内の奉安殿を流用した建造物も散策してみました。 笹井...
31/05/2026

「笹井戦災の跡」笹井白鬚神社と狭山に残る「奉安殿」流用の神社散策

埼玉県狭山市。入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あわせて、狭山市内の奉安殿を流用した建造物も散策してみました。 笹井戦災の跡(笹井白鬚神社) 昭和20年5月25日夜中(26日午前0時30分ごろ)の空襲によって、水富村笹井(狭山市笹井)から豊岡町黒須(入間市春日町)にかけての空襲では、5000発ともいわれる焼夷弾が落とされ、死者13名、負傷者10名、罹災者69家族346名にのぼったという。この空襲で笹井白鬚神社は、拝殿や社務所を焼失。しかし幸いにして、本殿は焼失を免れ、本殿奏上門は手前の破風が焦げたが全焼は免れた。奏上門の破風には、焼け焦げた跡が、往時の戦争の記憶を伝承するために今も残っている。 破風に残る焼け焦げた跡。焼夷弾の被害を物語る。 反対側は、類焼の被害なく。 対比させると、状態の違いが良くわかる。 笹井戦災の跡地 笹井戦災の跡地を示す標はあるが、細かい説明は無かった。せっかくなので、破風に残る焼け焦げた跡を解説する案内が欲しいところ。(今は知る人ぞ知る、、、になっているので) 笹井白鬚神社 創建年代は不詳。古くより笹井村の氏神として崇敬され、文明19年(1487)聖護院29代門跡道興准后が関東方面を巡錫の折、当社の別当寺観音堂に滞在し、当社を拝礼し、御神木銀杏を手植えされたと伝承。この御神木は明治11年9月13日の暴風により倒れたため、現在は若木が植えられている。明治5年、明治社格制定で、村社に列格。昭和20年5月25日戦禍にあい、文政8年(1825)に再建された拝殿及び社務所(建立年代不詳)を焼失。社務所は昭和22年ごろ再建され、拝殿は昭和41年氏子一同の浄財をもって再建。 せっかくなので、狭山市内の奉安殿流用の建造物も散策。 奉安殿(御真影奉安殿) 奉安殿とは、戦前において天皇陛下皇后陛下の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、のちに被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされているものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社の社殿などに再活用もされ、現在に残っている例も多い。 水富神社(水富国民学校奉安殿) 御社殿は、もと水富小学校奉安殿。水富小学校にあった奉安殿を、戦後に広瀬神社に移築し、日清・日露戦争以降の戦没者の御霊を旧奉安殿に招魂社・水富神社として祭祀。その後、昭和28年4月10日、旧奉安殿を現在地に移転。 水富神社の由緒一、当神社は招魂社として水富小学校の校庭の築山に忠魂碑、戦勝記念碑等が祭られておりました。  昭和28年に地元有志により当地に建立されました。二、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争で日本国を守り、郷土の安泰を願い、尊い生命を捧げられた方々、笹井地区に焼夷弾が投下され戦災に遭われた方々をお祀りする。三、例祭 4月22日  水富神社奉賛会 水富小学校 入間招魂社(入間小学校奉安殿) 昭和15年入間小学校内に建立された御真影奉安殿を昭和20年12月15日付をもって公布された神道指令にもとづき解体。建物は金剛院の土蔵に、礎石は入間野神社に保管していたが、昭和25年4月15日、これを再建し、日清戦争以降の英霊126柱を招魂して、入間招魂社としたものであり、その後38柱を合祀。祭神:日清戦争以降の戦没者164柱 狭山市サイト なお、入間小学校は、明治5年(1872年)の明治新政府の学制令発布により「入曽学校」として創立。明治22年に「入間尋常小学校」となった、歴史ある小学校であったが、創立137年の2011年に駅前再開発の影響等により閉校。閉校後、建物はすべて解体となっているため、「入間小学校」としても、唯一ゆかりの建造物となる。入間小学校の跡地は、イオンショッピングセンター「そよら入曽駅前」となった。 入間招魂社(いるましょうこんしや) 日清戦争(一八九四)より大東垂戦争(一九四一)に至るまで、この地から多数の青壮年が出征され、祖国のため勇敢に戦い殉国されました。 生命を捧げられた百六十四柱を、昭和二十五年(一九五O)四月十五日、旧入間村は戦後に解体保管されていた奉安殿を入間招魂社として復元、ここに御祀りしました。 時代は変わり行くとも平和の礎として、国の安稳と御魂の安らかなる鎮座を、永遠に祈念するものである。  令和元年十月   入間遺族会   入間奉賛会 「16紋菊の菊花紋章」。皇室の紋章が奉安殿の流用であることを物語っている。 下には「五七の桐紋」。

埼玉県狭山市。入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あ…

日本の航空事始め・その9「国内現存最古級な航空草創期時代のプロペラ」(狭山・廣瀬神社)埼玉県狭山市の広瀬神社(廣瀬神社)。延喜式内社(延喜式神明帳・武蔵国式内四十四社のうちの1社)の古社としても知られる神社。 私の記録(思い出)をさかのぼっ...
24/05/2026

日本の航空事始め・その9「国内現存最古級な航空草創期時代のプロペラ」(狭山・廣瀬神社)

埼玉県狭山市の広瀬神社(廣瀬神社)。延喜式内社(延喜式神明帳・武蔵国式内四十四社のうちの1社)の古社としても知られる神社。 私の記録(思い出)をさかのぼってみると、平成14年(2002年)7月に参拝、実に24年ぶりの往訪だった。当時の私は精力的に武蔵国式内社44社を巡っていたころ、かな。まだまだ戦争関連の知見は浅く、興味の方向性も今とは異なっていた頃。同じ場所に24年ぶりに違う目的で訪問するというのも、趣深いものがある。 日本の航空事始め 「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その9」となっておりました。今回は、日本の航空草創期時代の貴重なプロペラ。 「その1」はこちら。 モーリス・ファルマン式 大正6年(1917)に作られ、大正11年に、廣瀬神社に奉納されたプロペラ。 このプロペラは、「モーリス・ファルマン式MF.11(ショートホーン)」世代の航空機プロペラでは?とされている。 モーリス・ファルマンは、兄のアンリ・ファルマンやディック・ファルマンとともに、ヨーロッパにおける航空先駆者。兄のアンリ・ファルマンが設計した「アンリ・ファルマン号(1910年製)」は、日本において、最初の飛行を行った航空機。ファルマン兄弟は1912年に航空機メーカーとなる「ファルマン」を設立。(のちにフランスの航空機国有合理化により統合。)ファルマン兄弟は200種類に及ぶ航空機を設計し、なかでも弟のモーリス・ファルマンの設計した初期型の飛行機が、明治晩年から大正初期にかけて数多く輸入され、航空機の国産化を促している。 日本では、「モーリス・ファルマン式・MF.11(ショートホーン)」を1914年(大正3年)に輸入。臨時軍用気球研究会にて改造を加えて「会式第七号飛行機」とした。 ※国際軍用機第一号が「会式第一号飛行機」 「会式第七号飛行機」を基にした国産機を「モ式四型偵察機」として正式採用し東京砲兵工廠と陸軍所沢飛行場で80機を生産。複座練習機として、「モ式五型練習機」を11機、エンジン換装改良型の「モ式六型偵察機」を134機生産している。 国立科学博物館の収蔵庫には国内最古の飛行機「モ式六型」があるというが、非公開。 広瀬神社に奉納されたプロペラ 日本の航空発祥の地「所沢飛行場」にほどちかい狭山市の鎮守ゆえに、安全祈願として奉納されたであろう黎明期のプロペラ。 2026年5月22~24日にかけて、廣瀬神社で特別公開「廣瀬神社でお宝さがし-資料と伝承から読み解く神社と人々の歴史-(主催:廣瀬神社 協力:狭山市教育委員会社会教育課)」があったので、足を運んでみました。 狭山市役所Facebook びっくりの奉納品  この木製プロペラは、今から104年前の大正11(1922)年1月に廣瀬神社に奉納され、長らく拝殿上段に掲げて保存されてきたものです。今回、それを間近でみてもらうことにしました。奉納された方は地元またはその近在の方だと思われますが、開場したばかりの所沢飛行場で整備や試験飛行などに携わっていた方という可能性があります。当時は、我が国航空の黎明期で、飛行機の安全度は非常に低く、死と隣り合わせの任務でした。恐らく「安全」に強く願いを込めた奉納だったのでしょう。 百年の歳月によって、積層の木材がはがれ始めるなど損傷も大きくなっていましたが、当時の木材接着剤として一般的であったニカワを用い、地元の方々が協力し合って修復を試みました。その成果もぜひごらんください。  廣瀬神社でお宝さがし 膠(ニカワ)を用いて、木材を接着して修復。修復にあたっては、膠(ニカワ)の知識が関係者では皆無だっため、人形職人の知恵も借りた、という。 航空草創期のプロペラ 大正11年(1922)に廣瀬神社に奉納されてから、100年以上ものあいだを廣瀬神社で保管をされていたが、神社での保管も限界があるため、博物館(狭山市立博物館)への寄贈も検討している、とか。 奉納されたプロペラ刻印等:170大正6年5月7日制作129 計測データ全幅:2890mm最大翼幅 270mm根本厚さ:150mmボルト穴:6個ボルト穴配置円直径 120mm中央穴径:55mm積層:7枚先端形状:やや尖る製作:大正6(1917)年5月7日泰納:大正11(1922)年1月  陸軍工兵曹長 山崎和作刻印等  170  大正6年5月7日製作

埼玉県狭山市の広瀬神社(廣瀬神社)。延喜式内社(延喜式神明帳・武蔵国式内四十四社のうちの1社)の古社としても知…

「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」と戸塚球場跡地(早稲田大学)現在の早稲田大学総合学術情報センター。この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、昭和18年に出陣学徒壮行早慶戦「最後の早慶戦」が行われ学徒たちは戦地に赴いた、そん...
24/05/2026

「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」と戸塚球場跡地(早稲田大学)

現在の早稲田大学総合学術情報センター。この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、昭和18年に出陣学徒壮行早慶戦「最後の早慶戦」が行われ学徒たちは戦地に赴いた、そんな戦跡としても由縁のある場所。近くに立ち寄ったので、足を運んでみました。 日本野球黎明期の戸塚球場(安部球場) 明治35年(1902年)に早稲田大学が設置した球場。日本で初めて照明を設置し、ナイターが行われた球場でもある。昭和62年(1987)に閉鎖し、球場は現存していない。現在は、早稲田大学総合学術情報センターとして、中央図書館や国際会議場などが設置されている。 早稲田大学では、明治34年(1901)に、野球部が設立され、翌年の明治35年に「戸塚球場」が開設した。初代野球部長・安部磯雄が、早稲田大学創設者・大隈重信を説得しての開設であった。当時は、本格的な野球場は少なく、またプロ野球も存在していない時代であり、大学野球が、日本の野球の中心であり、早稲田大学の戸塚球場と、慶應義塾大学の三田綱町球場が東京を代表する野球場であった。 戸塚球場では、日本初の出来事が、「4つ」ある。 明治41年(1908年)米国大リーグ選抜チームと早稲田大学が対戦。大隈重信が日本野球史上初となる「始球式」を実施。 昭和6年(1931年)早大理工学部の山本忠興博士の労により日本初のテレビジョン放送の実験が、球場と早稲田大学電気実験室との間で実施。 昭和8年(1933年)日本で初めて野球場に照明設備を設置。日本初のナイターが行われた。 昭和11年(1936年)日本初のNHKラジオのプロ野球実況中継放送を実施。 昭和16年(1941年)4月、戦時色が強まる中で、戸塚球場を戸塚道場と改称。昭和18年(1943年)6月、鉄製スタンドと照明塔を撤去。昭和18年10月16日、「出陣学徒壮行早慶戦」が開催。これが第二次世界大戦期間におけるアマチュア野球最後の試合「最後の早慶戦」であった。  ここにかつて野球場があった。第二次世界大戦前は戸塚球場と呼ばれ、戦後は安部球場と称されて早稲田の歴史を共に歩み、全早稲田人に親しまれてきたグランドである。 早稲田大学に野球部が創設されたのは明治三十四年であったが、翌三十五年七月、初代野球部部長安部磯雄先生の御努力により、この地に野球場が誕生した。まだ黎明期にあった日本の野球は、明治三十六年に始まった早慶戦によって本格化し、大正十四年の東京六大学野球の発足後は、文字どおり国民的スポーツにまで高められた、その対象十四年には三万人を収容する大スタンドも造られたのである。 大正十五年秋、明治神宮球場が完成し、東京六大学野球はその主舞台をしだいに神宮球場へ移していった。しかし、戸塚球場は学生野球の重要な舞台として、全国の注目を浴び続けた、昭和八年には全国に先駆けて夜間照明設備も完成した。 野球のグランドとしてだけではなく、戸塚球場は全学運動会や大学創立五十周年記念祝賀会などの重要な学校行事が行われた場所であり、そして昭和十八年に学徒出陣壮行会という歴史的行事が催されたのもこの場所であった。とくに同年秋に行われた、いわゆる「最後の早慶戦」を忘れることは出来ない。この球場で、これを最後と熱戦をくりひろげた選手の多くが、戦場に散って再び帰らなかったのである。 昭和二十四年、早稲田の野球の生みの親ともいうべき安部磯雄先生が世を去られ、大学は先生を偲んでこのグランドを安部球場と改称することとした。その名は、戦後早稲田に学んだ三十数万人の学生諸君の胸裡に刻まれて今日に至っている。 それから時の流れること四十年、都会の膨張と学術の発展は、この地を野球場として用い続けることを困難とする状況をつくり出した。大学では、創立百周年記念事業の主柱である総合学術情報センターの建設を、この地に予定することとなったのである。幾多の部員諸君の血と涙と汗のしみこんだ思い出深い球場を、母校の学術発展のため明け渡すことを了承して下さった野球部の先輩諸兄に対し、心から感謝せずにいられない。この総合学術情報センターを訪れる方々は、どうかこの地に大学ゆかりの球場があったということを想起すると共に、先輩の方々の万感のこもる決断に思いを致して頂きたい。 昭和六十二年、野球部の練習場は東伏見に移転したが、「安部球場」は安部磯雄先生の胸像と共に、今もここにある。 1990年(平成2年)10月  早稲田大学第十二代総長 西原春夫 早慶戦百周年記念碑早稲田大学野球部の挑戦状を以って始まった早慶戦の第三回戦が1904年10月30日当地にて挙行された。 2つの銅像がある。早稲田大学初代野球部長・安部磯雄氏と、初代監督・飛田穂洲氏の胸像。 安部磯雄胸像 野球道具をデザインしたレリーフ。 母校前野球部長安部磯雄君ガ明治三十四年同部創設以来二十有五年ノ久シキニ亘リ夙夜同部ノ発達ト崇高ナル運動精神ノ鼓吹ニ務メラレ獨リ同部ノミナラズ汎ク我國運動界今日ノ盛運ヲ見ルニ興テ大ニ力アリタル其功労ヲ感謝シ記念スルタメ之ヲ建ツ依テ茲ニ之ヲ刻ス 昭和二年九月 早稲田大学校友會内  安部前野球部長記念會 飛田穂洲胸像 飛田穂洲氏 (本名は飛田忠順)早大野球部初代監督として大学野球の選手に大きな影響を与えた。「学生野球の父」と呼ばれてこの功績を称え1960年に野球殿堂特別表彰。 飛田穂洲先生像  飛田先生名は忠順 穂洲の号をもつて広く世人に親しまれた 明治十九年水戸市郊外に生まれ 水戸中学 早稲田大学時代はもとより その一生を学生野球道ひとすじに生き抜いてきた 水戸武士の精神に徹した先生は 安部磯雄先生の訓陶によつて日本学生野球のあるべき道を悟り これを実践するとともに 操觚界に人となるや独得の健筆をふるつてひたすら若い球児の啓発指導に努めた 人となり快淡無私 最も酒を愛し銃猟を趣味とした 昭和四十年一月二十六日七十八才の質素な生涯をとじた  昭和四十一年六月   財団法人日本学生野球協会    会長武田孟 早稲田大学総合学術情報センター 早稲田大学の中央図書館と国際会議場がある。 グランドは無くなっても、通りの名は「グランド坂通り」のまま。 撮影:2026年3月 関連

現在の早稲田大学総合学術情報センター。この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、昭和18年に出陣学…

弾丸除地蔵尊・観音寺(横須賀追浜)横須賀の追浜地区。横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。その地に鎮座する古寺に、弾丸除地蔵尊が建立されていたので、足を運んでみた。 弾除け信仰 戦時中、夫や息子・兄弟の出征に際して、...
10/05/2026

弾丸除地蔵尊・観音寺(横須賀追浜)

横須賀の追浜地区。横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。その地に鎮座する古寺に、弾丸除地蔵尊が建立されていたので、足を運んでみた。 弾除け信仰 戦時中、夫や息子・兄弟の出征に際して、家族が無事の帰還を願って、戦場で弾丸に当たらないように、「弾除け」を観音さまや御札、千人針などに祈願の気持ちを込めたのは、自然の摂理ではあった。 観音寺(追浜東町) 三浦三十三観音第二十二番札所。「坂中山 観音寺」戦国時代の相模の朝倉氏(北条綱成公の母の実家の朝倉家)の城跡。貞享4年(1687年)の開創という。「浦郷八景」として詠まれた絶景の地に鎮座。現在は、追浜の良心寺が管理を行っている。 浦郷八景:夏島秋月、勝力(岬)帰帆、箱崎夜雨、吾妻(山)晴嵐、州口落雁、榎戸夕照、亀島暮雪、独園(寺)晩鐘 弾丸除地蔵尊 観音寺の本堂脇に、鎮座する観音さま。像高50センチほどの小さな地蔵尊であるが、戦地に赴く人々の無事の祈願が、切実に重く込められた地蔵様。 弾丸除地蔵尊 昭和12年秋 昭和12年(1937年)の秋は、7月の盧溝橋事件に続く日中戦争の拡大期にあたり、日本が戦時体制へ急速に転換した時期。9月には「支那事変」と呼称が決定され、国民精神総動員運動が始動、メディアや生活の統制が強化された、そんな時期に建立された地蔵尊。 右手に「弾丸」を抱えている地蔵尊。 観音寺の本堂 三浦廿二番坂中観音 観音寺の高台から、日産追浜工場と夏島、住友重機械工業・横須賀製造所などを垣間見る。 場所: 筒井隧道 観音寺の下にあるトンネル。近くなので、あわせて掲載。横須賀、追浜はとにかくトンネルの多い街。 明治38年(1905年)、交通が不便だった地域の住民たちが自ら団結して切り開いた、谷戸の奥と生活拠点を結ぶトンネルが筒井隧道。素掘りで竣工し、海軍航空技術廠(海軍工廠)への通勤者増加に伴い、昭和8年(1933年)に、出入口を緩やかな登りにするため路面を切り下げる改修が行われた。上下の高さがひときわある「筒井隧道」は、元々出入り口が急坂で勾配を緩やかにするために、底を掘り下げる工事を行ったトンネル。 階段の高低差で、もともとの高さ。底を掘り下げる工事の名残をみることができる。 場所: ※撮影:2026年5月 関連

横須賀の追浜地区。横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。その地に鎮座する古寺に、弾丸除…

「拓殖招魂社と拓殖大学」戦跡散策(八王子)拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦跡があるというので、足を運んでみた。 拓殖大学 拓殖大学は、1900年(明治33年)6月...
10/05/2026

「拓殖招魂社と拓殖大学」戦跡散策(八王子)

拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦跡があるというので、足を運んでみた。 拓殖大学 拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された「台湾協会学校」を起源とする。1907年に「東洋協会専門学校」、1915年(大正4年)に「東洋協会植民専門学校」、1918年に「拓殖大学」と改称。1922年に「東洋協会大学」とするも、1926年に再び「拓殖大学」と呼称。戦前は、植民地経営のための人材を多く輩出した。また、太平洋戦争では、1263人の学徒が出陣をしている。空襲で、文京キャンパス(茗荷谷)の恩賜記念講堂などを焼失。終戦後、1946年(昭和21年)に「紅陵大学」と改称するが、連合国軍占領統治終了後に旧称の「拓殖大学」に戻し、現在に至る。初代総長は、桂太郎。後藤新平、宇垣一成、下村宏、そして中曾根康弘などが総長を務めている。 恩賜記念館 1912年に明治天皇から下賜された資金をもとに、1914年に文京キャンパスに建設された「恩賜記念講堂」を、創立100周年記念事業として2000年に八王子キャンパスへ復元・移築した建物。歴史資料室もあるというが、訪れた際は、残念ながら閉館していたので、もしかしたら、再訪かも。 恩賜記念館 明治45年4月23日 明治天皇から御下賜された恩賜金により、大正3年3月に建設された恩賜記念講堂を、創立百周年を記念して、平成12年に恩賜記念館として復元したものです。 内部には、記念講堂をはじめ、本学の歴史的な資料を展示する歴史資料室、マルチメディア閲覧室及び会議室があります。 なお、正面の桂太郎公の銅像及び館銘板は、当時の恩賜記念講堂のものです。 恩賜記念館 恩賜記念館の扁額。恩賜記念講堂当時のもの。昭和40年新校舎建築のため取り壊された際、半分に割れて廃棄されたものを回収したもの、という。 桂太郎銅像 桂太郎内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣。西園寺公望(第12代、14代)と交互に総理を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将。栄典は、従一位大勲位功三級公爵。通算首相在職日数は、2,886日(2023年4月現在、安倍晋三に次ぐ歴代2位)。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に病没した。 創立者 桂 太郎 先生銅像 拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者で、初代校長をつとめた公爵桂太郎先生(一八四七~一九一三年)の銅像である。 桂太郎公は弘化四年山口県萩に生まれる。 長州藩士として幕末緒戦に参加、維新後、ベルリンに留学、プロシアの兵制を学ぶ。山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、陸軍大将に累進した。 第二代台湾総督、陸相の後、明治三十四年初めて組閣の大命を拝し、第一次桂内閣首相として翌年日英同盟を締結、さらに同三十七年、日露戦争勃発するや挙国一致これに対処してよく戦勝に導き、しかも戦争の終結を深謀、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は史上に著しい。 明治三十三年(一九〇〇年)、台湾協会会頭として台湾協会学校を創立して初代校長に就任、以後十二年間にわたり本学の基礎をつくった。また医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医療の発展に貢献した。 大正二年 (一九一三年) 十月十日急逝。享年六十七歳。 この銅像は大正三年六月に完成したもので、設計·鋳造は武石弘三郎氏の作である。  平成十二年四月 桂太郎銅像は、文京キャンパスと、八王子国際キャンパス、そして山口県萩市の桂太郎旧宅にある。 恩賜金の下賜を伝えた明治天皇の御沙汰書を、桂太郎先生が、教職員・学生に奉読している姿。 拓殖招魂社 拓殖大学には、学内神社として招魂社がある。戦前期に茗荷谷学舎において創建。第二次世界大戦後に撤去された際、神社の扁額が学生によって持ち出される。1976年に総長室に扁額を奉安。1980年に八王子国際キャンパスに社殿を創建。戦没した御英霊を祀っていることから、「拓殖大学の護国神社」の性質を持っている。 拓殖招魂社拓殖招魂社由来の記拓殖招魂社は、昭和8(1933)年4月、学生有志の発願により茗荷谷校地(現在の文京キャンパス)に建立された。これより先、昭和6(1931)年4月に碑(「烈士脇光三碑」)が建てられた脇光三他5名の日露戦争戦没者をはじめとして、満洲開発の途上で、支那事変の従軍通訳として、また先の大戦等において国難に殉じた拓殖大学出身者の英霊を祭っている。終戦後、GHQのいわゆる「神道指令」によりやむなく焼却されたが、昭和51(1976)年10月、一学友によって九州に奉遷されていた神額が返還され、昭和55(1980)年10月23日、「拓殖大学の精神的原点」を象徴するものとして、学校、学友、学生三者の協力により現在の場所に再建された。令和5(2023)年に新たに一柱を加え、440柱を合祀。毎年春季秋季の2回、例祭を執り行っている。 拓殖招魂社由緒拓殖招魂社は、拓殖大学建学理念の具現化であり、精神的原点の象徴である。ここに祀るは究極的には、その理念であり、その理念に身を以て殉どれた尊い御霊である。即ちここに 、建学の理念を体し日本国家民族の護持に挺身し、亜細亜恢復の大義に殉じ、以て世界の調和進展の礎石となられた脇光三先輩を初めとする本学関係者の尊き御霊を紀り奉つる。 個を超えて日本、亜細亜、世界という全体に生きられたその御霊に合掌し、その無言の訓えに粛然として頭を重れ、我等またそのあとに続かんことを誓うものである拓殖大学...

拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦…

新宿の戦災樹木「稲荷鬼王神社のスダジイ」「鎧神社のイチョウ」 新宿のふたつの神社に戦災樹木があるというので、足を運んでみました。 稲荷鬼王神社のスダジイ(新宿区歌舞伎町) 稲荷鬼王神社の境内にある、空襲の熱で焦げた痕跡が残る樹木。歌舞伎町の...
10/05/2026

新宿の戦災樹木「稲荷鬼王神社のスダジイ」「鎧神社のイチョウ」 

新宿のふたつの神社に戦災樹木があるというので、足を運んでみました。 稲荷鬼王神社のスダジイ(新宿区歌舞伎町) 稲荷鬼王神社の境内にある、空襲の熱で焦げた痕跡が残る樹木。歌舞伎町の賑わいとは真逆な静謐な神域。新宿区の保存樹木に選定。 空襲の焼焦跡を感じさせる木肌。 門柱は「御大礼記念」、大正4年11月の建立。社号標は昭和2年9月の建立。 天水琴が清らかな音を奏でる。 ※2026年1月 鎧神社のイチョウ(新宿区北新宿) 1945年の山の手空襲による火災で、同神社は社殿や社務所など木造部分を全て焼失。幹に大きな空洞が残るイチョウ(銀杏・公孫樹)。ウレタン樹脂で空洞が埋められている。 ウレタンの劣化が、そのまま空襲焼焦跡を思わせるような気配を漂わせている。 昭和11年10月建立の灯籠 昭和11年9月建立の狛犬 ※撮影:2026年4月 幸國寺の大銀杏(新宿区原町) 別記事にて。 新宿区平和マップ 関連

新宿のふたつの神社に戦災樹木があるというので、足を運んでみました。 稲荷鬼王神社のスダジイ(新宿区歌舞伎町) …

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和8年)今年も靖國神社の桜花を愛でる。毎年恒例の花見。 御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。 境内に献木された桜たち。一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、桜...
09/05/2026

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和8年)

今年も靖國神社の桜花を愛でる。毎年恒例の花見。 御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。 境内に献木された桜たち。一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、桜の花を咲かせる。靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。御霊、やすらかに。 ありがとうございます。 以下、写真にて。 令和8年3月30日の靖國神社 また、1年後に! ※撮影:2026年3月30日。

今年も靖國神社の桜花を愛でる。毎年恒例の花見。御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。「花の都」「桜咲く宮」を…

富岡空襲(横浜南部空襲)の慰霊巡拝横浜の富岡地区は、「横浜海軍航空隊」の飛行艇基地や軍需工場などがあった。この富岡地区にも大規模な空襲があり、往時をしのぶ慰霊碑があるというので、足を運んでみた。 富岡空襲(横浜南部空襲) 昭和20年5月29...
05/05/2026

富岡空襲(横浜南部空襲)の慰霊巡拝

横浜の富岡地区は、「横浜海軍航空隊」の飛行艇基地や軍需工場などがあった。この富岡地区にも大規模な空襲があり、往時をしのぶ慰霊碑があるというので、足を運んでみた。 富岡空襲(横浜南部空襲) 昭和20年5月29日「横浜大空襲」横浜大空襲の被害範囲は、磯子までで富岡には大きな被害がなかった。 その12日後。昭和20年6月10日「富岡空襲」 横浜大空襲でターゲットから外れていた、富岡地区にあった横浜海軍航空隊と日本飛行機富岡工場・大日本兵器富岡製作所、そのほか磯子や本牧にあった軍需施設を中心として、米軍による空襲があった。投下された爆弾は約250発とされ、100名近い犠牲者があった。 湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)では、ちょうど停車していた電車の乗客や周辺住民が駅隣の人道トンネルに避難したが、周辺で数十発の爆弾がさく裂し、多くの被害者を出した。この富岡空襲により、湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)は、破壊され営業停止となっている。 こうして、横浜大空襲と富岡空襲(横浜南部空襲)によって、横浜の街は深刻な被害を被った。 戦争犠牲者諸聖霊(慶珊寺) 富岡空襲に際して、慶珊寺には多くの遺体が運ばれた。特に湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)周辺での犠牲者が多く運ばれた。境内に安置された遺体は40体ほどあったという。 戦争犠牲者諸聖霊 昭和二十年六月十日横浜市富岡町ハ米軍ノ爆撃ヲ受ケ数多ノ犠牲者ヲ出ス 偶々当地ニアッテ非業ノ死ヲ遂ゲシ諸聖霊無念ノ恨ミヲイダキテ当苑ニテ仮葬セラル 時移リ平和ノ世トナリテ三十数星霜往時ヲ知ル人数ナシ 今ココニ檀徒有志ト共ニ供養塔ヲ建立シ聖霊ヲ慰メ併セテ戦没者各霊ノ追福菩提ヲ祈ルモノナリ昭和五十五年春 慶珊寺第十九世 隆定識 山門の隣には、「孫文の上陸記念碑」があった。孫文は、日本には何度も来日しているので、そのうちのひとつ、ではあるが。なお、当時、慶珊寺の門前は、すぐ海が迫っていた。埋め立てられたのは戦後もだいぶ最近の昭和52年に「並木」地区が埋立地として造成された。 孫文先生上陸之地岸信介書 由緒近代中国建設の父にして、三民主義・大アジア主義の提唱者である孫文先生は第二革命に際し、袁世凱に追われ中国を脱出、台湾経由日本に亡命を企図され、1913年(大正2年)8月17日横浜沖より小舟にて当地富岡海岸に上陸、東京に向かわれた事実は当時の神奈川県知事大島久満次より外務大臣牧野伸顕に宛てた報告文により明白となりました。孫文先生の富岡亡命上陸成功の陰に当時の日本当局者並びに日本人有志の援護があり、それが要因となって近代中国が生まれたことを思えば、富岡上陸の意義は誠に大きいと言わねばなりません。しかも今回右の史実と意義を顕彰のため建てられたこの史蹟碑が富岡住民たちの研究と日本人有志多数の協力によって竣功したことは、両国親善の歴史に大きな金字塔を成すものと言えましょう。 昭和59年(1984)8月17日  孫文先生上陸之地記念碑建立委員会 ちかくには、直江三十五の邸宅跡、文学碑もあった。 直江三十五は、1934年に亡くなっているので、戦争とは直接の関係はないが。 京急富岡駅の境内にも、「直木三十五と富岡」についての掲示がある。 さらに近くには、松方正義別荘跡もあった。伊藤博文や井上馨、三条実美らの別荘も近くにあり、横浜金沢は明治期の政治家の別荘でもあった。のちに鉄道の開通とともに、鎌倉逗子湘南(大磯小田原)方面にと別荘も移っていくことになる。 十二天 松方正義別荘跡 「十二天」とは、十二神将をまつる十二天神社があったことに由来する。 戦災殉難供養塔(持明院) 「慶珊寺」の近くに鎮座する「持明院」にも、遺体が運び込まれたという。こちらにも慰霊碑があった。 戦災殉難供養塔昭和二十年六月十日 昭和20年6月10日の富岡空襲の戦災殉難者の供養塔。 位置関係は、こんな感じ。緑地帯=公園から右側が埋立地。 富岡八幡公園 富岡八幡宮 富岡八幡宮の隣、 日本国憲法起草之地 終戦後の第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣を任じられた金森徳次郎がこの地(印刷会社文寿堂社主・佐藤繁次郎別荘跡)に籠り、草案を書いたとされている。ちなみに、近くの金沢八景には伊藤博文らが関わった明治憲法の草案の地でもある。 日本国憲法として、マッカーサー草案は、下記も。 京急富岡駅(湘南富岡駅) 京急富岡駅は、戦前は「湘南富岡駅」と称していた。昭和5年(1930年)に、海水浴客専用の仮駅として開業。昭和6年(1931年)に、駅に昇格。昭和20年(1945年)6月10日の富岡空襲(横浜南部空襲)によって破壊され、営業停止している。 人道トンネル(京急富岡駅) 京急富岡駅のとなりにある人道トンネル。昭和20年6月10日の富岡空襲に際して、鉄道の乗客や周辺住民がトンネルに逃げ込んだが、トンネルの前後で爆弾がさく裂し、多くのっ人々がなくなった。富岡空襲は、都市空襲を目的とした焼夷弾ではなく、軍事施設の破壊を意図した爆撃であったため、破壊力の強い爆弾であり、そのために死傷者も増えたという。 このトンネル内でも、多くの人々が空襲の犠牲となった。合掌。 往時を物語るものは特にない。ただ、ここで爆撃があったという伝承が残っているのみ。 ※撮影:2026年4月 三渓園の被災狛犬(横浜南部空襲で被災した狛犬) 富岡空襲(横浜南部空襲)で被災した三渓園の狛犬。むかし(2016年)、三渓園に赴いたときに、撮影していた写真があったので、掲載。空襲被災で首から上を失った狛犬や、左耳を失った狛犬が今も残る。 三渓園は、原富太郎(原三溪)によって、1906年に造園された。1923年の関東大震災と太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月10日の横浜南部空襲で被害を受け、一部の建造物を失っている。 楠公社と観心橋楠公とは、南北朝時代の武将·楠正成のこと。社殿の建物は、もと大阪·観心寺にあったもので、楠正成が建武元(1334)年に建立、自らの守護神·牛頭明王を祀ったと伝えられた。三溪園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家·米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある首の欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのもので空襲による破壊の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による。 (おまけ)巡洋戦艦「天城」流用の浮桟橋 まったく、関係ないけど、三渓園のある本牧の高台から、ジャパンマリンユナイテッド横浜事業所磯子工場を垣間見る事ができる。此処には、関東大震災で被災し解体された巡洋戦艦「天城」船体の一部を流用した浮桟橋が今も護衛艦の整備等で活躍している。 ※撮影:2016年8月(三渓園と本牧) 本牧は、下記をメインで過去に散策していました。 関連 富岡にあった海軍部隊。

横浜の富岡地区は、「横浜海軍航空隊」の飛行艇基地や軍需工場などがあった。この富岡地区にも大規模な空襲があり、往…

慶應義塾大学の近代建築・戦跡散策(信濃町)慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の信濃町キャンパスには、慶應義塾大学病院があり、そして、僅かながらに戦争の痕跡も残っている。そんな、慶應義塾大学病院の周辺を散策してみました。 慶應義塾大...
21/03/2026

慶應義塾大学の近代建築・戦跡散策(信濃町)

慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の信濃町キャンパスには、慶應義塾大学病院があり、そして、僅かながらに戦争の痕跡も残っている。そんな、慶應義塾大学病院の周辺を散策してみました。 慶應義塾大学医学部予防医学校舎 1929年(昭和4年)建設。慶應義塾大学・信濃町キャンパスにおいて現存する鉄筋コンクリート造りの建物の中で、この予防医学校舎が最も古い建物となる。 1945年5月24日未明に受けた空襲で、慶應義塾大学医学部と病院を有する信濃町キャンパスは約1万5千余坪のうち9300坪を失った。当時、木造建築物が多かったために病院の主要部分は焼失したが、予防医学校舎、北里記念医学図書館は鉄筋コンクリートであったために、焼失から逃れて現存している。 昭和20年5月24日25日の空襲(山の手大空襲) 昭和20年(1945)5月24日は、東京の山の手地域と「3月10日の東京大空襲」で焼け残った町全体を目標として、525機のB29が渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。さらに、翌日の25日深夜には、まだ焼夷弾による被害を受けていない東京の残存地域を目標として、470機が高性能焼夷弾3000トンを投下した。被害は、山の手方面を中心に南多摩・北多摩にまでくまなく及んだ。 予防医学校舎に残る焼夷弾の跡 慶應義塾大学医学部予防医学校舎の車寄せに残る「六角形の焼夷弾の跡」。1945年5月24日未明に受けた空襲の痕跡。 M69油脂焼夷弾の六角形の形がしっかり残っている。まっすぐに叩きつけるように落ちた焼夷弾の衝撃を物語っている。痕跡と思われるものを、すくなくとも3箇所は、確認できました。 六角形の焼夷弾「M69焼夷弾(M69油脂焼夷弾)」は、イメージとして下記の記事も参照に。 北里記念医学図書館 起工1936(昭和11)年6月5日竣工1937(昭和12)年10月7日慶應大学医学科を創立し「日本細菌学の父」とも呼ばれる北里柴三郎を顕彰するために1937年(昭和12年)に北里記念医学図書館として、建設された。 慶應義塾大学食養研究所跡(食研跡地記念碑) 慶應義塾大学食養研究所(食研)は、1926年に医学部内に設立された研究機関。空襲の戦災を耐えた食養研究所であったが、1990年(平成2年)建物は解体された。外壁の一部が残され、記念碑が建立された。 往時の食研外壁平成2年11月解体 食研跡地記念の碑 塾祖福澤諭吉が唱えた食養の概念を具体化するため、大正15年(1926)益田孝ら財界人の厚意によりこの地に慶應義塾大学医学部食養研究所(食研)が設立された。 研究所主任に大森憲太が就任し、栄養増進、食事療法およびビタミン学の研究を行った。昭和2年(1927)臨床と基礎の共同研究を推進すべく、小林六造のもと臨床最近研究室が併設された。食研は第二次世界大戦の戦火を免れ、大学の研究の灯はここに守られた。また中央検査室も食研に始まった。 その後も食研は、慶應医学はもとより日本の医学の発展に大きく貢献し、平成2年(1990)11月27日その幕を閉じた。 地域文化財第51号慶應義塾大学食養研究所跡食養研究所は大正15年に、日本の人口·食糧問題の解決や患者の食事療法の研究を目的として慶應義塾大学医学部に設置された。鉄筋コンクリート3階建ての研究所が建てられ、大森憲太を中心に栄養増進、食事療法、ビタミン学の研究が行われた。平成2年廃止となり、現在は「食研跡地記念の碑」が建つ。新宿区 慶應義塾大学病院 となりには、信濃町煉瓦館。これはこれで、興味深い建造物。 信濃町の陸軍境界標石(陸軍第一師団輜重兵第一大隊) 陸軍第一師団輜重兵第一大隊の境界標石。大正9年に慶應病院に用地が売却され輜重兵営部隊は郊外に転地している。 陸軍省所轄地 慶應義塾は1917年11月 四谷区信濃町の陸軍用地を購入し大学医学部と病院の本拠とした。本標はこの地が陸軍省所轄地であったことを示す境界石である。2023年5月 慶應義塾 慶應義塾大学によって、案内看板が設置されておりました。 信濃町の南には、青山練兵場があった。 ざっと1時間もかからずに、ちょっとした散策が楽しめる「信濃町の戦跡散策」でした。 ※撮影:2026年3月 関連

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慶應義塾大学の近代建築・戦跡散策(三田)慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の三田キャンパスには、いくつか戦争に関するモニメント(戦跡)がある。キャンパス散策をしてみました。 慶應義塾大学と戦争 太平洋戦争のさなか、全国の大学で最大...
14/03/2026

慶應義塾大学の近代建築・戦跡散策(三田)

慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の三田キャンパスには、いくつか戦争に関するモニメント(戦跡)がある。キャンパス散策をしてみました。 慶應義塾大学と戦争 太平洋戦争のさなか、全国の大学で最大の戦災を被ったのは慶應義塾であったという。昭和20年4月、日吉・工学部校舎の8割が焼失。昭和20年5月、信濃町地区(医学部)と三田地区の施設の半分以上が焼失。慶應義塾の塾長・小泉信三も傷を負った。慶應義塾の塾生は、陸海軍に、勤労動員に、疎開に、散り散りとなり、学生による学徒出陣は約3,500名となり、義塾関係の戦歿者は2,200名以上を数えた。8月終戦。慶應義塾は全国の大学の中で、最大の空襲被害を受けた罹災校であった。9月には日吉地区に米軍が進駐し、昭和24年秋まで接収されたため、戦後の復興計画もすすまなかった。 還らざる学友の碑 「還らざる学友の碑」は、先の戦争により学び舎に戻ることが叶わず、志半ばにして逝った学友を偲んで1998年に建立された。碑には、「アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿(白井厚編/慶應義塾福澤研究センター発行)が、収められている。  還らざる友よ  君の志は   われらが胸に生き 君の足音は  われらが学び舎に   響き続けている ここには「アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿」(白井厚編/慶應義塾福澤研究センター発行)が納められています 平成26年10月 慶應義塾 還らざる学友の碑この碑は今次大戦において志半ばにして逝った学友を偲び慶応義塾が建立する 平成十年十一月  慶應義塾塾長 鳥居泰彦 戦没者名簿によると、日中戦争以降の塾関係の戦没者数は2,224名に上るという。 みたまやすらかに合掌 「平和来」朝倉文夫 戦没した学徒や卒業生を追悼するために、1952年に製作され、1957年に設置された。「へいわきたる」(へいわらい)作者は、朝倉文夫。第8回日展出品作品。台座には、戦時中塾長であった小泉信三の碑文が刻まれている。 平和来 朝倉文夫作 丘の上の平和なる日々に 征きて還らぬ人々を思ふ  小泉信三 識 「青年」菊池一雄 1948年製作、菊池一雄の代表作。戦時下の応召中に喉を潰した声楽家志望の青年をモデルにする。 手古奈(空襲被災) 彫刻家・北村四海の代表作。明治45(1912)年4月に竣工した図書館玄関ホールに設置。1945年5月の東京大空襲によって被災し、戦後まもなくより図書館地下の倉庫に収納され、そのままの状態となっていた。歴史的痕跡を留める方針とし、欠損部分は補填せず、戦禍による痕跡についても残すこととなった。 あえて戦災の痕跡を残し修復された 幻の門(旧表門) 慶應義塾が三田に移転した明治時代初期にさかのぼる門柱。当時はこちらが表門=「正門」であったという。 第2次世界大戦中の1943(昭和18)年11月、三田で塾生出陣(学徒出陣)の壮行会が挙行された。大講堂前を出発した出陣学徒は他の塾生たちに見送られ、表門から旅立ち、福澤の墓参に向かった。 戦時中には、陸軍のトラックが門柱を破損した事件もあった。当時用度課長であった羽磯武平が、小泉信三塾長にそのことを報告すると「軍と雖(いえども)遠慮することは無用である。然るべく要求し請求すべきである」との指示を受けたそうである。...

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住所

Chuo-ku, Tokyo

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